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シンプルな生き方を目指すセラピストシローの人生シロウト体験日記 

シンプルな生き方を理想とし、無駄な思考・行動をできるだけ排除するためにはどうするかを自己の体験・思考を元に綴るブログです。

愛と栄養は同じ

ただの日記 リーダーについて 不安との闘い 人生について 悩み事 自分の価値観

仕事が忙しいというか後回しにして締め切りまじかのものが多すぎて大変。

計画通りにやっていたら今さらこんなことにはなっていない。

やりたいことを優先しすぎててんやわんや。

と言いながら、必要のないブログを書いてしまうあたりが自分の悪いところでもあり気分転換が上手なところかとも勝手に自己評価してしまう。

 

最近スタッフの入れ替わりがあり、人との関わりの難しさをまた感じている。

人ってほんとに十人十色信じられないぐらいにタイプが異なる。

接し方に注意しているつもりでも真意が伝わっているのは数%じゃないかと思うぐらいコミュニケーションというのは難しい。

コミュニケーションのまずさから疎外感を感じているスタッフは必ずいる。

というか思い当たる節がありすぎて非常に恐怖を感じている。

あのスタッフは自分に対して何かよからぬことを考えてはいないだろうかと夜外を歩いていると後ろを気にしながら歩くことだってしばしば。

普段は自分の思いを口に出すことが少ないだけに、心の奥底に秘めた彼の不満を想像するだけでも夜も眠れない。

しかし、その彼にどのように対処すればいいのかどんな本を読んでも参考にならない。

 

彼は何を感じているのだろうか普段の無表情具合が恐怖心をより駆り立てる。

 

彼はいつからあのように無表情になってしまったのだろうか、

彼が発言するたびに事務所の空気が歪んでいく。

その場に合わなすぎる発言をする彼の空気察知能力はどのようなものだろうか。

空気を凍り付かせるつもりなど毛頭ないだけにより一層彼に対しての苦手意識は高まるばかり。

 

彼の支えとなる物は何かあるのだろうか?

彼は何を支えとして生きているのだろうか?

 

生化学的に言えば彼は生きていく上で十分に必要なものは摂取できている。

むしろ過剰摂取と言えるほどに肥満体である。高血圧だし。

その割に彼の職に対する欲求は果てしない。

自分では気を付けているのになぜ痩せないのだろうと悩んでいるところがまた周囲を困らせる。

周囲から見れば十分すぎるほど栄養を摂取している。

 

人間が生きていく上で生化学的なものを過剰摂取せねば彼は生きられない状態にいるのだろうか。

 

もう一つ生きていく上で欠かせないものがある。

それは他者からの愛である。

他者からの愛を感じられないものは生に対して絶望を感じ、生を諦めるか自暴自棄となり周囲を巻き込んだ事件を引き起こす。

 

彼は愛を教授できないがために栄養を過剰摂取し、愛の代わりにしているのかもしれない。

彼が愛を感じることが可能になればだんだんと肥満体から解放され、標準的な体型へとそして無表情から解放されるのかもしれない。

 

愛と栄養は同じ。

彼にはきっと愛が足りないのだ。

 

しかし、栄養には貪欲に行動を起こす彼も愛に対しては非常に消極的である。

栄養は行動を起こしても失敗することはないが、愛は行動を起こすと成功もあれば失敗することもある。

失敗の可能性があるということに彼は行動に移すことを躊躇しているのかもしれない。

 

この点においてだけは愛と栄養は全く違ったものなのかもしれない。

簡単に手に入る栄養だけを頼りに生きる彼は決して間違った行動をしているというわけではないが、人間として生きていく上ではお酒が飲めないと人生の半分を損しているという酒飲みの意味不明な理論より的確に人生を損している。

 

愛を感じらられるからこそ生きる希望が湧き、日々が活力のあふれたものになる。

そんな当たり前の生活を彼にも感じてほしい。

 

失敗を恐れる彼に対しては行動を求めるより、行動を起こすきっかけを与えてくれる誰かが必要なのかもしれない。

 

その誰かとは他でもない自分である。

自分以外に彼にきっかけを与えられる人間はいない。

 

それだけの責任を持って自分は行動にでないといけいない。

あー重責。

たまらん。

でもやるしかないようだ。

人生シロウトに対して大したハードルを用意してくれたものだと感じさせてくれるいつもの日常でした。

「この世界」を生きられるのは他でもない自分だけ。

ただの日記 不安との闘い 人生について 自分の価値観 悩み事

今日も色々と思考を巡らし、パンク寸前。

どこまで行っても自分のことしか考えられない。

他人を尊重して利他的に生きることなど自分の人生においてはあり得ない様子。

所詮は自分は自分。

自分があっての「この世界」

「この世界」と定義できるのは自分のみであり、「この世界」は自分から見た一方向の世界であり、他社の視点から見た世界は存在しない。

「この世界」というものを知覚できるのは自分だけ。

他者からは「この世界」は知覚できず、「その世界」とか「あの世界」になると思う。

自分が知覚した世界をそっくりそのまま他人に知覚させることはできない。

自分と他人で全く同じ受容器を持っていないのだから。

仮に全く同じ受容器を持っているものがいれば「この世界」を自分と他者で知覚できるが、そのようなことは絶対にありえない。

「この世界」全く同一のものは存在しえない。

「瓜二つ」や「酷似している」ということはあっても、誕生した瞬間の周囲の環境が一つ一つ違うのだから同一物というものは存在しない。

名称は同じでも同一ではない。

同じ人間でも同一は存在しないし、水一滴でも同一のものは存在しない。

「酷似」していても細分化していけば同一は存在しない。

だから自分の価値観を他人に共有してもらう、もしくは、共有してもらえると思うことは初めから検討違い。

検討の余地もないこと。

だから他人の意見は特に聞く必要はない。

自分が知覚したことを素直に受け入れ、知覚した時の感情を受け入れ、その感情を基に行動する。

行動においては思考は必要ない。

知覚した感覚・感情を素直に受け入れて行動に反映させることがまず優先されるべきことである。

このように書くと自分は恐ろしく自己中心的なにんげんであるかのように思われるが、自分は紛れもなく自己中心であると思う。

自信を持って言える。

自分は自己中心的であると。

先ほども言ったようにこの世に存在しているのは自分が「この世界」を知覚し、自分をそして他人を知覚しているからであり、そのすべてを知覚できなければ自分は存在しえない。

自分の知覚から全ては始まるのだから自己中心的であっても何ら問題はない。

このような発想は非常に危険な発想であるように思われそうだが、犯罪等に関しなければ何の問題もないようにも思う。

自分はうんこなんだからどんな人生を歩もうと他人には関係ない。

言ったこととやってることが違ったって別に構わない。

それで社会でのポジションを失えばそれまで。

自分の行動の結果がそうであるだけで、他人が原因でないのだから他人にとやかく言われる筋合いもない。

悔いのない人生にするためには自分の知覚したことを頼りにそれを羅針盤として行動することが大事だと思う。

「この世界」を知覚できるということが全てであり、生きていく上でそれ以外に必要なものは何もない。

退職の前に一仕事。過去の二年より濃密な一年に。

ただの日記 人生について 悩み事 自分の価値観 退職 訪問リハビリ デイサービス 不安との闘い

今年の年末で退職することを社長に宣言してから、早いもので1年が経ちました。

あの日以来会社の中の状況は目まぐるしく変わり果たして自分は本当に2016年末に退職できるのか不安な時期もありました。

宣言した当初私は昨年末での退職を考えていました。考えていただけではなく、社長にもはっきりとその熱い思いをばっちり伝えていたのです。

しかし私が退職するとそのとばっちりが既存のスタッフに及ぶのではないかと考え私が去った後に文句を言われるのを恐れた私は2016年末まで退職を延ばすことを宣言した後一か月も経たないうちに社長に報告しました。

もちろん社長にとってはその方が求人活動に割く時間がなくなり、新たに人間関係を築く必要性もないため大変喜んでおりました。

 

既存のスタッフの為を思って退職を延ばしたのにも関わらず、7月ごろにスタッフの一名に身内のトラブルが起きました。

祖母の危篤状態。もちろん偶然であり誰も何も言えないのは当然のこと。しかしこのタイミングでこんなことが起きるんだと退職に向けて一段階目の不安を感じました。不安は的中し、スタッフは祖母の最後を看取るため地元に帰りたいと申し出てきました。

人材不足で困っている現状においてまさかの事態でした。その時点で採用が決まってたのは翌年の1月。「まだ半年間もあるのに...。それに実母ではなく祖母。」と心の中では思っていましたが、それは人の価値観。「わかりました」と言うしかありませんでした。

まさかの後出しじゃんけんで見事先に退職されるという事態。

 

さらにトラブル発生。10月には29年度にデイサービスを町の中心地に出来る大型商業施設の中に開業するという社長のプラン。商機を逃すわけにいかないと攻めに出る気持ちはわかる。しかし本業は訪問リハ。訪問リハあってなんぼの会社で、人員不足に悩まされているというのにも関わらず。誰が責任者をするのだと思いながらも、給料をもらっている身として会社の意向に背くことはできず。立ち上げに向けて奔走中。

 

さらにさらにトラブルは続き、今年に入って2月に市が運営する温浴施設が立ち行かなくなり、運営管理業者を公募していると社長より。施設の状態を確認してから、手を挙げるか考えたいと。施設見学の指示が入る。

施設には問題が何もなく、非常に良い施設だと感じ。そのままのことを報告すると早速応募する社長。

そして見事に運営管理業者に任命を受ける。市や市民の要望により6月を目処に営業を再開してほしいとの要望あり。

任命を受けたのが3月上旬。残すところ3か月弱。どこの大企業なのかと思うが、人員不足の当社は現在スタッフ7名で他の事業に回す人材などいるはずもなく。

果たして今年の年末に私は退職できるのだろうか。毎日が充実していると言えばそれまで、でも実際のところは小忙しい芸人状態。

濃密すぎるこの一年。小忙しいで留まればいいがまだまだ退職に向けての不安は拭い去れない。

 

今年の目標を立てみて。その内容は人生の課題でもあった。

ただの日記 人生について 悩み事 自分の価値観

今年の目標は人生計画を立ててその経過を遂行していくこととしました。

 

30余年生きてきましたが、未だに計画を立ててそれを素直に遂行したことはありません。

 

それには自分に原因があるのでしょうが、未だにその原因が解明できていません。

 

今のところもしかしてと思う原因は

①計画自体が無理のあるもの

②計画の目的があいまいなもの

③期間の定めだけで、実行に移すための具体的な行動目標がない

④途中で飽きる

⑤計画通りことを進めようとするのが果たしていいのかと疑問を持つ

⑥性格があまのじゃく

⑦無計画な人に憧れる

などなど枚挙に暇がありません。

 

結局自分が生きる上で何をやりたいのかということにそんなに興味がなかったから、その場鎬的に面白そうなものを選択してきたように思います。

 

計画性があることがすごくいいとも思わないし、無計画がいいとも思わない。

 

しかし、そんな自分にも転機となることが起ころうとしています。

それは結婚です。

自分にとっては一生関係のない言葉だと思っていましたが、ついにその現実が目の前に突如として現れてきたのです。

 

まあ、実際のところは突如ではありませんが。

年齢を重ねるうちに様々な人と出会い別れ、多くのことを経験してきました。

その中で自分が生きる上で必要とする人がより鮮明になってきたということだと理解しています。

1人でも生きていける自信はありましたし、今もそれは変わりません。

将来に不安を覚えることは今までないし、十分に楽しい人生を送ってきました。

そんな私でも一緒にいることでより良くなれるんじゃないかと思える人に出会うことができました。

最近出会ったわけではなく、以前から知っていたのですがその人の重要性というか必要性というものにようやく最近気づいたのです。

だからと言ってその人が何か特別に優れているからとか見た目がすごくいいというわけではありません。

しかし、何のタイミングかで自分には必要な存在だと認識することができました。

 

相手は年上、バツイチ、子持ちで世間的に見れば初婚の自分にとってはいいところは何もないのではと思われることが多いと思います。

しかし、それにも関わらずなぜか自分には必要な存在だと思わせてくれる何かが彼女にはあったのです。

 

その彼女と一緒になるためには、子供もいるため今までのように無計画にただ楽しいことをしているだけでは、関係を保つことはできません。

だから今自分が一生の課題であった計画性というところを改善する必要に迫られているのです。

 

今年一年が今後の人生で一番大事な一年になると感じ、やるしかないと決意を固めることになりました。

いわゆる腹をくくるというやつです。

 

こんな未熟な人生シロウトがこのような決意に至ることがこんなにも早くくるとは思ってもみませんでした。

立場が人を作るという言葉はまさにそうで、今の自分にふさわしい言葉であると感じています。

 

これから思い描く人生が彼女たちにとってより良きものとなることが自分の一番の満足度を高めることであると今は感じています。

 

飽き症の自分がどこまでやれるかまた新たなチャレンジができて非常に楽しみに思っています。

人は変化があってこそ楽しみがあるのだと感じています。

変化こそ成長であり、人生であると。

 

変化を拒んだときに人は人生を終えるのだと自分は思います。

今日は偉そうに語ることが多いシロウトシローです。

これに懲りずに読んでくれる人がいるといいなと思います。

自分の考えは具現化される。そしてまた一人自分の下から去っていく。

ただの日記 悩み事 自分の価値観

退職を決めてからおおよそ一年が経とうとしています。

 

退職をするきっかけは多くありますが、

飽きた

社長が信用できない

寒い

地元になかなか帰れない

こんなところでしょうか。

 

まだありました。スタッフと良好な関係を築けない。

実はこれが一番自分の中では大きいかもしれません。

 

苦手なスタッフがいましたが、2名は既に退職しました。

女性、男性スタッフそれぞれ1名ずつ。

 

2人は大きな問題があるわけではないです。

一般的に見れば。

 

しかし、私の価値観としてはどうも受け入れきれない部分が多く、

一緒に働くのが嫌だなと思っていました。

そのため、その感情が知らず知らずのうちに2人には伝わっていたのでしょう。

結果特に苦手だったその2人は退職していきました。

 

果たしてこれでいいのかなと思いながらも特に引き留めることをしないうちに2人は

私のもとを去りました。

 

管理者として人間的な成長が乏しい私に付き合うのに疲れたのが、2人の退職理由だと私は理解しています。

 

自分が成長しない代わりに周囲の環境が変わってくれることを潜在意識下で思っていたのかもしれません。

 

それが具現化した現状ですが、

やはりそれでは満足感は依然として低いようです。

 

建前としては2人の退職が残念でならないからです。

 

しかし、潜在意識では退職を望んでいた。

 

このずれが自分を苦しめているのだと今回も感じました。

 

結局何の話かよくわからないけど、思えば実現するのだということです。

それが良いか悪いかに関わらず。

それが自然の摂理であるということをよく理解することができました。

 

このジレンマを受け入れることができるかどうかで人生の質も変わってくるのだと思います。

病気に苦しんでいる人、苦境に陥っている人は改めて自分の内面に問いかけてほしい。

本当に自分が求めていることは何なのかと。

そこから何かが見えてくるはず。

 

圧倒的に人任せにして生きてきた自分ですが、結局は自分の蒔いた種しか目を出さないということです。

 

人に負い目を感じながら日々なんとか生活しているシロウトシローです。

問題を極限まで細分化すると人は混乱し、恐怖を覚え洗脳される。

それ何がおもろいん? 医療について 悩み事 自分の価値観

去年から治療系の勉強会に参加しています。(一応理学療法士としても働いています。)

 

勉強会の内容が高度化するにつれて対象となるものが目に見えないものとなります。

 

もちろんそれは非常に大事な部分であり、治療がはまれば効果は大きいのかもしれない。

 

そして、その効果や起きている現象に対して受講者驚き、自分もそのような治療技術を習得したいと思うようになる。

 

これ自体が悪いわけではないが、最近だんだんと興味が薄れてきている。

 

自分が治療の良い成果を挙げられていないから起きていることを納得できないという面ももちろんある。

 

しかし、なんとなくその場の空気がおかしいようにも感じる。

 

目に見えないものをあたかもあるように見せる。現象としては起きているので詐欺ではない。

 

見えないものを対象として話を進めていくと話者の方が明らかに優位な立場から話を進めることができる。

 

そしてその空気は空間を包み込み、受講生全体に否定的な意見を言えないように、また否定的な反応をすることを認めない。

 

そうなってくると若干眉唾気味に思っている自分自身が間違っているような錯覚を覚え、理解できない自分を責めるようになる。

 

そうすると理解できるまでその勉強会に参加しないといけいなという強迫観念にかられる。

 

講師と受講生というのは常に上下関係があり、対等に意見を言い合うことがない。

ましてや講師が人間的に魅力的であり、誰からも好意的にみられるような存在であればあるほど両者の関係性は強固なものになる。

 

これを意図的に利用している講師も多くいると思う。

しかし、意図せずしてこのような関係性を築いてしまっている講師もいる。

ただひたすらに一生懸命やっていることが逆効果になっている場合。

こうなるとなかなか手に負えずむしろ講師・受講生共に良いことを行っているという自負が生まれてしまい、発展性が失われ自己満足だけの勉強会になってしまう危険性がある。

 

治療系の本来の目的としては知識・技術に長けたものが、さらにおおくの優れた治療家を生み出すため野もであり。

より多くの困っている患者を救うために行うべきものである。

 

しかし、それがいつしか自分たちの世界でオタク的に技術の粋を競い合うような社会的には何の生産性も生み出さないものになってしまっているものがある。

 

問題点を短絡的に治療することが否定され、問題点をより複雑に掘り下げ難しい技術がもてはやされつつある傾向にあると感じている。

 

どちらの方がいいと一方的に認めることはできないが、極端すぎるのはどちらも問題である。

 

受講生は誰のためにやっているのかということをより明確にして参加しないと、講師の私腹を肥やすことだけにお金を費やしかねないということを改めて認識する必要があると考える。

 

問題は講師側にもあるがマニアックであまり一般的でなく、一般の人が理解しにくい高等な技術が良いと考える受講生の方にも大きな問題はある。

 

よりシンプルな技術を考え出し、誰にでも簡単にできる技術というものが世の中に現れてくることが一番良いと考える。

 

少し偉そうに語った内容ですが、私自身治療系の勉強は既に飽きがきております。

何に対しても飽きやすいシロウトシローです。

医学書は読みにくい。特に訳書はひどい。

ただの日記 医療について 悩み事 自分の価値観

医療・介護業界で仕事をしているので、仕事のスキルを上げようとすれば必然的に勉強する必要があります。

 

勉強の方法は人それぞれで

・先輩から聞く

・研修会などに参加する

・本を読む

 

簡単にあげるとこんなものでしょうか。

一番簡単で費用も掛からないのはネットで検索する。ネットでは最新の情報がたくさんありますので、現代ではもっとも効率の良い方法でしょうか。

しかし、ネットではデータの裏付けがあるようなものは概要しか見ることができず、詳細は課金する必要があります。

そのため実際的にはあまり費用は安くないのかもしれません。

 

先輩から聞くというのはその先輩がしっかりと学習したであればよいですが、なんとなく雰囲気で経験的にやっているような人はあまり聞いても参考になる部分はないのではと感じます。

 

研修会に参加するのは色々な人が参加しているので刺激も多く、講師以外からも有用な話が聞けたりしますが、すべてがそういうわけでもなく結構費用が高いかと思います。

時間も研修会に合わせないといけないし。

 

やはり、本から得る知識というのが後々の自分にとっては非常に有益なものになると私は思っています。

本には答えが書いてあるようなものもありますが、基本的はそこから得られる知識を生かして実際にどのように活かすのかというところが大事になってきます。

この過程を繰り返すことでスキルが上達するのではと考えています。

 

しかしながら、この本がいかんせんやっかいなのです。

特に訳書になると頓珍漢な言葉づかいでわかりにくい。

もともと医学書というのは難しい言葉使い、内容だけではなく日本語を理解するのに時間がかかります。

さらに訳書となる一層ひどいです。

訳者となる人は一般の翻訳家では役不足です。

専門用語が出てくるので、その辺りの知識をしっかりと備えた人でないと的確に訳すことができません。

そのために医学書の訳書はその筋の専門家が行うことが多いです。

その筋の専門家というのがまた厄介で、専門用語を知っており、訳すこともできるが、表現力がまったくない。

そのためにただただ訳していくだけで、前後の繋がりが非常に解りづらく、読むのに苦労します。

 

何を思って訳しているのかわかりませんが、基本的には読者のことを考えて訳しているのではなく、ただただ訳しているだけで何にも見えてこない。

 

最近購入した書籍が一冊2万5千円と自分にとっては非常に高価なものだったのですが、原著は英語で書かれており、アマゾンで検索するとなんと4千円で売られていました。

訳すだけでこれだけ値段が変わるものなのかと理不尽極まりないと思いました。

だったら原著を読めるぐらいの語学レベルを身に着けた方がよっぽどいいなと思いました。

しかも訳がひどすぎて読むのにすごく時間がかかる。

 

訳者の人はグーグルの翻訳機能を使って訳したんじゃないかというぐらいのひどいレベルでした。

自分の語学力のなさにがっかりするしかなかったです。

 

シロウトシローは経験せねば学習しません。