シンプルな生き方を目指すセラピストシローの人生シロウト体験日記 

シンプルな生き方を理想とし、無駄な思考・行動をできるだけ排除するためにはどうするかを自己の体験・思考を元に綴るブログです。

生まれた町への思い

 最近人に地元のことを紹介する機会があった。

 

今までもどんな町か?というのは聞かれることはあった。

すごくシンプルな質問だけど、地元がどんな場所か?というのを深く考えたことがないし、住んでいるとなんでも当たり前に思えるから地元には何もないという風に答えることが多かった。

 

でも今回は改めて地元のことを紹介する機会を無理矢理設けられたから、特に何もない町ですで終わるわけにはいかなかったので、考えてみた。

どうせ話をするんだったら、悪く言うのもなんかなと思うから良い点を探して話をしようと準備した。

 

地元は人口30万人弱の田舎でも都会でもないぐらいの大きさ。

特別な観光地はないが、本州と島を繋ぐ橋が有名。

そこを眺めるのに良い海岸があるので、それは地元以外の人が見ると綺麗と思うんじゃないかなと思って紹介した。

さらにその海岸の近くにはスーパー銭湯があり、そこの露天風呂に入りながら見る景色もなかなか良いと伝えた。

風呂に入りながらそんな景色が見れるのは贅沢ではないかと改めて感じた。夜はイルミネーションもあるので、尚更良い。

他にも海岸があり、その海岸には過去に10数回ウミガメが来て産卵をしたことがある。常時見れるのものではないが、他の場所でめったにあることではないので、ふーんと思わせるのにはちょうど良いと思ってこれも紹介してみた。

 

施設としてはかなり古い科学館とそこにある日本でも古い部類にあたるプラネタリウムがある。歴史があるということはアピールできる部分でもあるが、機材が古いということはそれなりのものしか見れないと思うが、その歴史に触れることができる場所としては特別な存在かと思って伝えてみた。

 

有名な歌人を祀った神社がある。それは科学館の近くにあり、一緒に回るにはちょうど良い。

 

テレビでよく紹介される商店街がある。年末には活気を見せるが、普段は閑散としている。特に平日は店の人以外とすれ違うことがないぐらい人が少ない。

有名ではあるが、がっかりさせないように正直に伝えることも地元のイメージを悪くしないためには必要だと思う。

 

少し考えてみるだけで、意外と地元にも何かしら人に紹介できるものがあるものだなと感心した。

ここに挙げたものはネットで調べればすぐにヒットするようなものばかり。

地元民しかしらないディープな情報は挙げていない。

そこまで地元のことを深く知らないからだ。

地元に対しての愛があればもっと独自目線での紹介ができるはずだ。

そこまでの紹介ができるだけの愛を自分は持ち合わせていない。

何かを紹介するときの熱はその何かに対しての愛の量によるのだなと感じた。

 

興味を引き付けるように紹介できる人は本当に尊敬するなと常々思っていたが、そこには愛の深さがあったのかと思うとなんとなく、なるほどなと思える。

自分も何かを人に紹介するときに興味を引くような説明ができるほど、何かを熱烈に愛したいなと思う。

 

また今日もつまらない文章をだらだらと書いてしまった。

乱文失礼致します。

中庸というものを改めて考えてみる

昨日はフラワーエッセンスのセッションを受けてきた。

その中で自分の普段の思考パターンについて気づかせてもらうことができた。

その点とはある物事に対して出た結果について自分は全て出来なかったことについてしか目が向かないということ。どうしても出来ないところを自然と見る癖があるということ。

確かに結果の捉え方としては「出来た」か「出来なかった」に終始することが多いとは思う。

ただ、それだけでは次に繋がるものはなく、その場で完結してしまい。成長に繋がりにくい。

自分は毎回そのような思考の仕方を繰り返していたんだと気づいた。

そのために成長できていないような感じがして、毎回同じところでつまづいていると落ち込んでいた。

落ち込みやすいのも「出来なかった」という部分にばかりフォーカスしてしまうことが原因だということもわかった。

そこで考え方の癖を変えていくための一つとして、よくある例えで、

コップの中に水が半分残っている時に「まだ」半分「も」残ってると捉えられるような癖をつけるといいと。そう思うことが大事だと

「思う」ということがポイントになる。

結局は全てのことは思えるかどうか。

捉え方次第。

目の前にある事象としては一側面だけでは成立しない。

一側面だけではないのと同義ぐらいになると思っている。

「ある」という状態があるから「ない」という状態があると判断できるのであって、

「ない」という状態しか無ければ「ない」という状態もない訳で、

「あなた」という存在があるから「わたし」という存在がある。

「あなた」という存在がなければ「わたし」という存在判断ないことになる。

分けることができるから両方が存在できるのであって、

分けることができないと存在できない。

でも、分けることが出来るだけでそこに「良い」「悪い」というのもは存在しない。

まずは「ある」ということと「ない」ということが存在するということを認めることが、物事のベースにあるということを意識する。

だから「出来なかった」ということをみること自体も悪いことではなく、「出来た」ということを探す意識を持つことができれば成立することではないかと思う。

自分の特性として、「出来なかった」を見つけるのは得意なので、後は「出来た」を見つけることが出来るようになってくればもう少し安定してくると思う。

 

前置きがすごく長くなったけど、自分なりに今回の経験を通して考える中庸とは、

「結果や事象は一つしかないけど、それらが存在出来ているのは、別の側面の結果や事象が裏にはあるからだ」という見方のことを言うのだと思う。

 

計画性という人生最大の課題

自分には計画性というものが全くない。

そのため、いつも締め切り間際に焦っている。

夏休みの宿題が最終日までに終わっていることは一度もなかった。

実習のレポートが期日に間に合わず逃げたことがある。

勉強会の準備を怠り、発表の前日に徹夜したことがある。

学会発表の準備が遅れ、周りに迷惑をかけたことがある。

治療計画を立てないがために、ゴールにたどり着くことなく延々と時間を浪費させてしまったことがある。

目標を設定することがないため、いつも同じ悩みを抱えている。

 

上記は一例だが、計画性を立てずに生活をしていると土壇場でいつも困ることになり、仕上がりが中途半端になることが多い。

それで自分の人生が終わりそうになったことはなく、クビになったこともない。

だから自分は反省の色がいつも薄いのかもしれない。

学びが少ないのも計画性がなく、上手くいかなくても計画性がなかったせいにできるから。

計画を立てて計画通りに行かなかったときの喪失感を味わうのが怖いから、計画をたてることを無意識的に拒んでいるのかもしれない。

 

しかし、周囲の年長者からは計画性の重要性を説かれることが多い。

計画してきて成功したからそういうのか?

それとも自分を反面教師として、お前には失敗をして欲しくないということか?

どちらにしろ、大事だということには変わりはなさそうだ。

 

計画とは目標ないと立てられないと思っていたけど、実はそうではないらしい。

締め切りがあるものには全て計画を立てられそうだ。

もっと言うと締め切りがないものでも、任された仕事には計画を立てる必要があるらしい。

計画を立てるということは優先順位をつけるということとほぼ同義のような気もする。

 

計画を立ててしまうと計画以外にやりたいことが見つかった時にできないことがもったいないと感じるから計画を立てないという説も自分の中にはある。

計画を一度立てると自分の性格上それをどうしても遂行したくなる。完ぺき主義だから。そうなると計画実行中に現れた面白そうな出来事を泣く泣くスルーせざる負えなくなる。なんと悲しいことか。面白そうなことが目の前に現れたときに飛びつくことができるフットワークの軽さが自分のウリであるからこそ。計画を立てることでそんな自分が失われるかもしれないと恐怖しかない。

これが自分が計画を立てない一番の理由かもしれない、旬な時に旬なことをする。世の中的にどうであろうと自分が旬と感じたものをその時にしないとそれはなくなってしまう。その刹那的なものが自分の人生の中では大きなウェイトを占めているように思う。

 

この葛藤に終止符を打つべきか、それとも一生この葛藤と付き合うのか今が決断の時期であるということは間違いない。

 

またまた乱文失礼しました。

 

自分を生きる

自分を生きるということはどういうことか?

自分とはそもそも何か?

自分は規定できるものは何か?ということを考えた方がよいかもしれない。

自分を規定するものは何か?自分を規定するのが自分ということはありえない。

たぶん自分を自分で規定しようがない。だって自分だから。

自分を規定はできないが、自分が別の存在を他者と規定することはできる...と思う。

だから仮に自分というものが他者を規定して、他者と規定できないものが自分というやつなのかもしれない。

ということは「自分を生きる」ということは他者の存在をまず規定することから始まり、他者が生きていることを確認できてから、自分が生きていることを認識できる。

他者が生きていない、もしくは他者が生きていることを認識できない世界では自分が生きているということは言えず。自我のある何かが生きているということになる。

そのため、「自分を生きる」ということを実現するためには「他者が生きる」を可能にしないと実現しえないこと。

つまり、「他者が生きる」が在りきで、「自分を生きる」がある。

「自分を生きる」ということで自分よがりになるだけでは、「自分を生きる」ということはできない。

他者をまず活かして、自分を生きる。

他者ありき。

他者に何かをできるものだけが、自分を生きることが許されるのかも。

果てしなく大変。

でも世の中を見ていると好き勝手にやっている人がいる。

それが世の中に許容されているなという人がいる。

なぜなのか?

好き勝手に生きることが他者のためになっていることがあるということか。

そんな生き方素晴らしい。

 

今の自分にそれができる土壌があるかというと全くない。

自分勝手に生きると周りが困る。

自分勝手に生きると相手に損失を与える。

自分は自分勝手に生きることができない。

自分勝手に生きることは他者に迷惑をかける行為という認識しかないからだ。

自分を生きる、自分らしく生きることが誰かのためになる。これが達成できるとお互いにすげーいい。

羨ましい関係性にある。

自分のしたいことが誰かのために。そんな夢みたいなことがあるのか?

自分のしたいことを先に考えるのか、誰かのためになりそうな自分のしたいことを選ぶのか?

職人はどちらかな?

職人だと自分のしたいことが、誰かのためになると直結しているような気がする。

だから職人に憧れるのかもしれないな。

 

今日も乱文失礼いたしました。

自分らしく生きるということの無理さ加減は飛んだ夢物語であるということを誰も教えてくれない。

「自分らしく生きる」

結構どこでも見るコピー。

誰もが当たり前のことのように言う言葉。

そもそも「自分」というものを認識できていない人が多いこの世の中で、

誰が一体このありきたりの言葉を達成できているのか?

「自分らしさ、その人らしさ」

すごく綺麗な言葉のように思える。

でも実際にそんな大事なことなのか?

医療・介護業界では良く使われてる。

そのたびに誰が達成できているのかといつも思う。

その人らしさってどこまでのことを言うのか?

その人らしさを構成する要素はその人個人だけで達成できるものではない。

その人をその人たらしめているのは、その人を取り巻く環境全てである。

その人が触れる環境全てがその人らしさを規定する。

その人がいる環境が変われば必然的にその人らしさは一変する。

その人が病院にいれば、病院という環境におけるその人らしさ。

その人が街に出れば、街という環境におけるその人らしさ。

場面によってその人らしさは異なるはずだ。

それが生きるということだから。

 

適者生存。

その人を取り巻く環境に適応することができなければその人はその環境では生存できない。どうすればもっともその環境にいやすくなるのかということを合理的に理性を越えて動物的感覚で判断しているはず。

要するに直感。

直感はその人が生きてきた道の上にあるもの。

天から降って湧いたものではない。

その人が生きてきた証が直感。

直感は経験がなければ働かない。

直感は今までの判断の積み重ねの結果がある場面において反映されるだけであって、天からの声ではない。

 

その人が生きてきた歴史を知らなければその人らしさはわからない。

どこまでその人の歴史に迫ることができるか。

しかし、歴史は歴史でしかなく今ではない。

今を生きる人にとって現在は過去の積み重ねではない。

未来も現在の積み重ねではない。

 

そのような中でどのようにしてその人らしさを規程するのか?

めちゃくちゃに難しいはずなのに傲慢な医療・介護職者は簡単に「その人らしさ」を強調する。

当たり前のことではあるが、当たり前のことほど難しい。

 

「因果応報」

原因があるから結果がある。

当たり前のこと。

悪いことをすればそれが自分に返ってくる。

だれでも知っている。

でも実現することは難しい。

当たり前なのに難しいと思うのではなく、

「当たり前と思っていることほど難しい。」

この当たり前のことに気づくことがまず大事。

「自分らしく生きることは素晴らしい」というのは当たり前のこと。

だから難しい。

認識を変えることは難しい。は当たり前のこと。

当たり前のことだから難しい。ということに行きつくと思う。

転職してから半年以上が経過してみて思った色々なこと。

昨年末で東北での仕事に一区切りをつけて。

北陸の地にやってきた。

農とリハビリテーション的なことを結びつける。

というか農と高齢者の役割作りさらには健康づくりまちづくり、ぐらいまでいけるのでは的な希望を持ってやってきた。

しかし、蓋を開けてみたらなんのことはない東北での仕事と同じ内容。

あえてそれだけは辞めてと言ったのにも関わらず。

人員不足が自分の仕事や野望を奪う。

思ってたんと違う...

一般企業に勤める人にとっては当たり前のことなのか?

会社に勤めるっとそういうこと?

いやでもそんなはずはないと思いつつも半年が経過。

結局状況は変わらず、仕事内容も変わらず。

唯一変わったことと言えば入社当初より責任が増えたということ。

リーダーという名称がついたために手当はついたもののめんどくささが増えただけ。

信頼されていると言えば聞こえは良い。

結局ここでも人員不足が僕の首を絞めつける。

責任を取るのは組織ではなく、ボク個人。

会社って一体なんなのか?

one for all,all for oneってなんのこと?

会社は社員のためには存在しないのか?

にも関わらず社員は会社のために存在するのか?

結局は会社を成り立たせるために社員はいる。

きっとそう。

社会のために会社は存在する。

社会>社員

当然の結果。

社会貢献できない会社は継続性がない。

近江商人も言っている。三方よしと。

「買い手よし、売り手よし、世間よし」

全くその通り。

言い換えると「会社、顧客、社会」

ここには社員は含まれていない。

会社=経営陣

であり、従業員ではない。

従業員は読んで字の如く、会社に従うものである。

存在価値と言えば会社を存続させるメリットがあるかどうか。

なければ必要ない。

ここを理解して仕事をしているかどうかでモチベーションは変わる。

理解せずにあくせく仕事をするというのは徒労以外の何物でもない。

顧客のために流した汗は、結局のところ経営陣の懐に入るだけなのだから。

富の分配というものは会社のピラミッドの上の方だけ。

ピラミッドの下に位置するものには富は分配されず、業務が分配されるだけ。

どれだけ良い企業だと言われていても、社員がもらえる金額など雀の涙程度。

同情するなら金をくれ。社会の為でも金をくれ。

経営陣よ会社は赤字とは言えあなたが高級車に乗り、立派な家に住んでいられるのはなぜでしょうか?

それはピラミッドの下位の人間から搾取しているからに違いない。

本当に赤字で困っているのならそんな差は生まれないはず。

しかし、これは企業に就職したらどこでも同じこと。

当たり前のことである。

現状を打破するには個人事業主として独り立ちするほかない。

安定してそうな薄給社員を選ぶか、不安定だが流した汗が自分に返ってくる独立か

どちらを選ぶも物事が見えていればいばらの道。

でも一度の人生どちらも経験している方がおいしい。

結局は死ぬんだから経験豊富な方が僕は良い。

自分の器もわかってる。

どこまでいけるかもわかってきた。

選ぶ道は自ずと見えてくる。

今は焦らず「置かれた場所で一心一途なれ」という従属させるための言葉以外のなんでもない社訓を胸に秘め。

明日からも僕は顧客の為(会社の懐の為)に汗を流す。

結局は答えがでない文章を今日も書き続ける。

半年ほどブログから遠ざかっている。

書く内容がなかったと言えば確かにそう。

家にネット環境がないというのもそう。

iPhoneでは書く気がないというのもそう。

忙しくてブログまで手が回らなかったというのも確かにある。

しかし、どれも理由としては成立するようで成立しない。

どんな出来事でも理由を後付けすればそれなりにそのように見えるもの。

だからといって何か言いたいことがあるかというとそうでもない。

 

物事には理由があるという。

確かにそれもそう。

 

原因があるから結果があるという。

100%ではないがそれもそう。

 

なんとなくそれらしい言葉を並べるともっともらしいし、

なんとなく説得力がある気もする。

 

「なんとなく」という言葉自体も解釈が様々ではあるものの、

結構使い勝手が良い。

 

言葉を使って人間はコミュニケーションを取る。

言葉を放つと他に人がいれば何かが起こる。

 

誰かが「あ」と言う。

横に誰かがいると「え?」という。

「あ」だけでも何かが起こる。

仮に横の人が「あ」を無視しても。

「無視」という行為は発生している。

さらには「あ」と言った本人は「無視された」という

感情を抱く。

 

言葉は何でも起こすことができる。

逆に言うと言葉がなければ何も起こり得ない。

 

人間から言葉を奪うと何もできない。

 

と、思い込む。

確かにそう。

 

でも実際にはそうではない。

言葉がなくてもなんとかなる。

実際にそれは言葉が通じない環境に行ったときに感じた。

 

だから言葉を失くした人たちにはそれを伝えたい。

でもそれは体験した自分がいるから言えること。

 

同じ体験をしていない人にその説明をしても納得はしない。

体験談を話すことが共感を生み、納得に繋がるとは限らない。

 

実体験を通して共感を求めようと話をすることは良いような気がする。

確かに体験した人しかわからない、生の言葉だから説得力がある気がする。

でもテレビで見るドキュメンタリーを見ているようなものでもあると思う。

一歩退いた目線で話を聞いているので、良いようで良くないようで。

 

何が言いたいかというと納得するかしないかは結局のところ相手任せ。

相手がどうとらえるかはこちらの差配でどうなるものでもない。

 

だから重要なことは慎重に伝える必要がある。

でも不器用だからそれがなかなかできない人もいる。

自分は不器用な方。

慎重に伝えるつもりが直球勝負。

強気の攻めになってしまうことがある。

 

分かってくれる人はわかってくれる。

そうで良い気もするが、そうではいけない気もする。

 

人とのやり取りはどうしても難しい。

自分の操縦が苦手な人間にとっては余計にそう感じる。