シンプルな生き方を目指すセラピストシローの人生シロウト体験日記 

シンプルな生き方を理想とし、無駄な思考・行動をできるだけ排除するためにはどうするかを自己の体験・思考を元に綴るブログです。

自分らしく生きるということの無理さ加減は飛んだ夢物語であるということを誰も教えてくれない。

「自分らしく生きる」

結構どこでも見るコピー。

誰もが当たり前のことのように言う言葉。

そもそも「自分」というものを認識できていない人が多いこの世の中で、

誰が一体このありきたりの言葉を達成できているのか?

「自分らしさ、その人らしさ」

すごく綺麗な言葉のように思える。

でも実際にそんな大事なことなのか?

医療・介護業界では良く使われてる。

そのたびに誰が達成できているのかといつも思う。

その人らしさってどこまでのことを言うのか?

その人らしさを構成する要素はその人個人だけで達成できるものではない。

その人をその人たらしめているのは、その人を取り巻く環境全てである。

その人が触れる環境全てがその人らしさを規定する。

その人がいる環境が変われば必然的にその人らしさは一変する。

その人が病院にいれば、病院という環境におけるその人らしさ。

その人が街に出れば、街という環境におけるその人らしさ。

場面によってその人らしさは異なるはずだ。

それが生きるということだから。

 

適者生存。

その人を取り巻く環境に適応することができなければその人はその環境では生存できない。どうすればもっともその環境にいやすくなるのかということを合理的に理性を越えて動物的感覚で判断しているはず。

要するに直感。

直感はその人が生きてきた道の上にあるもの。

天から降って湧いたものではない。

その人が生きてきた証が直感。

直感は経験がなければ働かない。

直感は今までの判断の積み重ねの結果がある場面において反映されるだけであって、天からの声ではない。

 

その人が生きてきた歴史を知らなければその人らしさはわからない。

どこまでその人の歴史に迫ることができるか。

しかし、歴史は歴史でしかなく今ではない。

今を生きる人にとって現在は過去の積み重ねではない。

未来も現在の積み重ねではない。

 

そのような中でどのようにしてその人らしさを規程するのか?

めちゃくちゃに難しいはずなのに傲慢な医療・介護職者は簡単に「その人らしさ」を強調する。

当たり前のことではあるが、当たり前のことほど難しい。

 

「因果応報」

原因があるから結果がある。

当たり前のこと。

悪いことをすればそれが自分に返ってくる。

だれでも知っている。

でも実現することは難しい。

当たり前なのに難しいと思うのではなく、

「当たり前と思っていることほど難しい。」

この当たり前のことに気づくことがまず大事。

「自分らしく生きることは素晴らしい」というのは当たり前のこと。

だから難しい。

認識を変えることは難しい。は当たり前のこと。

当たり前のことだから難しい。ということに行きつくと思う。

転職してから半年以上が経過してみて思った色々なこと。

昨年末で東北での仕事に一区切りをつけて。

北陸の地にやってきた。

農とリハビリテーション的なことを結びつける。

というか農と高齢者の役割作りさらには健康づくりまちづくり、ぐらいまでいけるのでは的な希望を持ってやってきた。

しかし、蓋を開けてみたらなんのことはない東北での仕事と同じ内容。

あえてそれだけは辞めてと言ったのにも関わらず。

人員不足が自分の仕事や野望を奪う。

思ってたんと違う...

一般企業に勤める人にとっては当たり前のことなのか?

会社に勤めるっとそういうこと?

いやでもそんなはずはないと思いつつも半年が経過。

結局状況は変わらず、仕事内容も変わらず。

唯一変わったことと言えば入社当初より責任が増えたということ。

リーダーという名称がついたために手当はついたもののめんどくささが増えただけ。

信頼されていると言えば聞こえは良い。

結局ここでも人員不足が僕の首を絞めつける。

責任を取るのは組織ではなく、ボク個人。

会社って一体なんなのか?

one for all,all for oneってなんのこと?

会社は社員のためには存在しないのか?

にも関わらず社員は会社のために存在するのか?

結局は会社を成り立たせるために社員はいる。

きっとそう。

社会のために会社は存在する。

社会>社員

当然の結果。

社会貢献できない会社は継続性がない。

近江商人も言っている。三方よしと。

「買い手よし、売り手よし、世間よし」

全くその通り。

言い換えると「会社、顧客、社会」

ここには社員は含まれていない。

会社=経営陣

であり、従業員ではない。

従業員は読んで字の如く、会社に従うものである。

存在価値と言えば会社を存続させるメリットがあるかどうか。

なければ必要ない。

ここを理解して仕事をしているかどうかでモチベーションは変わる。

理解せずにあくせく仕事をするというのは徒労以外の何物でもない。

顧客のために流した汗は、結局のところ経営陣の懐に入るだけなのだから。

富の分配というものは会社のピラミッドの上の方だけ。

ピラミッドの下に位置するものには富は分配されず、業務が分配されるだけ。

どれだけ良い企業だと言われていても、社員がもらえる金額など雀の涙程度。

同情するなら金をくれ。社会の為でも金をくれ。

経営陣よ会社は赤字とは言えあなたが高級車に乗り、立派な家に住んでいられるのはなぜでしょうか?

それはピラミッドの下位の人間から搾取しているからに違いない。

本当に赤字で困っているのならそんな差は生まれないはず。

しかし、これは企業に就職したらどこでも同じこと。

当たり前のことである。

現状を打破するには個人事業主として独り立ちするほかない。

安定してそうな薄給社員を選ぶか、不安定だが流した汗が自分に返ってくる独立か

どちらを選ぶも物事が見えていればいばらの道。

でも一度の人生どちらも経験している方がおいしい。

結局は死ぬんだから経験豊富な方が僕は良い。

自分の器もわかってる。

どこまでいけるかもわかってきた。

選ぶ道は自ずと見えてくる。

今は焦らず「置かれた場所で一心一途なれ」という従属させるための言葉以外のなんでもない社訓を胸に秘め。

明日からも僕は顧客の為(会社の懐の為)に汗を流す。

結局は答えがでない文章を今日も書き続ける。

半年ほどブログから遠ざかっている。

書く内容がなかったと言えば確かにそう。

家にネット環境がないというのもそう。

iPhoneでは書く気がないというのもそう。

忙しくてブログまで手が回らなかったというのも確かにある。

しかし、どれも理由としては成立するようで成立しない。

どんな出来事でも理由を後付けすればそれなりにそのように見えるもの。

だからといって何か言いたいことがあるかというとそうでもない。

 

物事には理由があるという。

確かにそれもそう。

 

原因があるから結果があるという。

100%ではないがそれもそう。

 

なんとなくそれらしい言葉を並べるともっともらしいし、

なんとなく説得力がある気もする。

 

「なんとなく」という言葉自体も解釈が様々ではあるものの、

結構使い勝手が良い。

 

言葉を使って人間はコミュニケーションを取る。

言葉を放つと他に人がいれば何かが起こる。

 

誰かが「あ」と言う。

横に誰かがいると「え?」という。

「あ」だけでも何かが起こる。

仮に横の人が「あ」を無視しても。

「無視」という行為は発生している。

さらには「あ」と言った本人は「無視された」という

感情を抱く。

 

言葉は何でも起こすことができる。

逆に言うと言葉がなければ何も起こり得ない。

 

人間から言葉を奪うと何もできない。

 

と、思い込む。

確かにそう。

 

でも実際にはそうではない。

言葉がなくてもなんとかなる。

実際にそれは言葉が通じない環境に行ったときに感じた。

 

だから言葉を失くした人たちにはそれを伝えたい。

でもそれは体験した自分がいるから言えること。

 

同じ体験をしていない人にその説明をしても納得はしない。

体験談を話すことが共感を生み、納得に繋がるとは限らない。

 

実体験を通して共感を求めようと話をすることは良いような気がする。

確かに体験した人しかわからない、生の言葉だから説得力がある気がする。

でもテレビで見るドキュメンタリーを見ているようなものでもあると思う。

一歩退いた目線で話を聞いているので、良いようで良くないようで。

 

何が言いたいかというと納得するかしないかは結局のところ相手任せ。

相手がどうとらえるかはこちらの差配でどうなるものでもない。

 

だから重要なことは慎重に伝える必要がある。

でも不器用だからそれがなかなかできない人もいる。

自分は不器用な方。

慎重に伝えるつもりが直球勝負。

強気の攻めになってしまうことがある。

 

分かってくれる人はわかってくれる。

そうで良い気もするが、そうではいけない気もする。

 

人とのやり取りはどうしても難しい。

自分の操縦が苦手な人間にとっては余計にそう感じる。

それなりの組織にはそれなりのルールがある。突き抜けられないのは社員ではなく社長のせいだと思ってしまう。

久しぶりにパソコンを開きブログを書こうと思ったきっかけが、また愚痴になろうとは...すごく残念で仕方ない。

 

昨年末に退職した職場は自分が入職した時点では創業2年弱のベンチャー企業。給料等の待遇面では居住地域の水準を大きく上回るものだったので、納得していた。

職場内でのルールがないのは創業間もない状態で、現場管理者もその間に何人か変わっていたので、それも仕方ないと納得していたし、その時にいた現場の人間で作り上げていけばいいと前向きに捉えることができなくはなかった。

 

しかし、1月に入職した職場は創業10年を超え業界では歴史のある部類になると思う。

にも関わらず、ルールがほとんどなく、現場管理者はいるが業務の責任の所在がはっきりせず思うように仕事が進まずイライラが募るばかり。

創業10年ってこんなんもん?

そんなに大したことではないのか?

創業10年の中小企業生前率は10%弱と聞いたことがあるが、それはウソなのか?

 

生き残っているのはそれなりの理由があるのではないかと思っていた。

しかし、現実には会社に理由があるのではなく、単純に独占市場であるから。

競合他社が存在せず、やったもん勝ち的な感じとなっている。

そんな状態だから、組織は成熟せず社内のルールもあいまいなまま。

職員は定着せず、入っては辞めの繰り返し。

 

とりあえずその場しのぎの人員配置では組織は成熟するはずもない、そんな状態にも関わらず社長は次々と新規事業を立ち上げる。

そのために現場の人手不足は絶えず、仕事量が増える割に給料は上がらず、満足度は非常に低いと思われる。(職場では不満を言われる方が多くいる。)

そのような状況をどれだけ社長が把握しているのか?

 

100人を超える社員がいる会社で外を向いていることが多い社長がそこまで目を配れているかというとそんなはずはない。

 

組織のピラミッドとしては、社長、副社長2名、部長6~8名程度で形としてはできている。

しかし、支店がいくつかできる中で、管理職が全く関わっていない支店もある。

管理職はいるのにバランス良く配置されていない。

本社機能を有する地域に多く管理職は配置され、残りの視点は現場管理者に一任されている。

権限委譲と言えば聞こえはいいが、実際のところは管理しきれておらず支店ごとのルールは決まっておらず、決裁権は持っていない。

何か確認することがあれば本社確認。

そういう企業が多いのかもしれないが、そんなこと確認する必要がある?

というようなことまで本社確認。

確認してもすぐに返答もなく、確認を怠っている場合もあり中々話が進まない。

 

管理者に意見しても意味はなく、会社が悪いと裏で文句を垂れるだけ垂れて、必要な場面では発言しない。

そんな非建設的な話を聞かされて入職直後の私は何を思えばいいのだろうか?

 

書類の管理ぐらいは自分でやればいい。

なんでも事務職任せにするのはおかしい。

最後まで責任を持って、仕事にとりかかる。

そんな意識さえもないのは、個人の問題もあるが実際にはまず会社。

会社が小さい規模の時からきっちりと仕事をしてこずに、そのばしのぎでやってきたことがまず原因。

初めからやってればこんな事態にはなっていない。

 

こういうルールはこつこつ積み上げてこそ築かれていくもの。

企業の精神は日々の積み重ねが作るもの。

会社の空気が社印をその気にさせる。

言って分かるものではなく、空気ありき。

そういう空気がまずあり、ルールを徐々に作っていく。

そうしないと上手に組織は回らない。

ルールだけでは人は動かない。

でもここまでこの空気出来たなら、無理にでもルールを作って責任の所在をはっきりさせて思いっきりシフトチェンジするしかない。

 

明日はその最初のきっかけを打ち出す日になりそう。

あーやだな。

言わなくてもいいなら言いたくない。

でも自分の日々のストレスを減らすためには一回のストレスはがまんするしかないんかな。

クソ社長。見とけよ。

方向性はどんなものにもあり、方向性を知ることが目的地を知ることに繋がる場合もある。まずはそれを身体で体現したい。

最近アレクサンダーテクニークで学んだことを書いてみます。

 

「身体の方向性」が大事だと教えてもらいました。

 

最近からだが縮こまったような感じがして身体に違和感を覚えていました。どれだけ伸びをしても伸びなくて。やればやるほど背中の一部が緊張して。どうしたもんかと悩んでいました。退職が近づき面倒なことが多くてストレスフル。そんなことも影響してか身体が緊張していました。

 

そのタイミングでアレクサンダーテクニークのレッスンに行く日予定があったので、タイムリーだと思いどうしたらいいか聞いてみると「身体の方向性」が大事だと教えてくれました。

 

身体にはそれぞれが方向があると。呪文のように「頭首脊椎」「前へ上へ」と思うと。

・頭と脊椎は前方に回転、椎体後部は上方へ

・肋骨も脊椎に連動した方向へ

・両肩は外側へ

・肘は肘頭が向く方向に

・指は指先が向く方向に

・坐骨は下へ

・大腿骨は膝蓋骨の方向へ

・下腿は下へ

・つま先はつま先の向く方向へ

 

色々するよりもこれを思うだけで身体は楽になると。

確かにこれだけのことを思うだけで身体は楽になり、背伸びをしてもすごく伸びる。

 

色々重なったら色々試さずに原点に帰る。

シンプルすぎるから本当に大丈夫かと思うけど、シンプルって簡単って訳ではなくって物事の本質だから余計なものがなくて逆に捉えどころがなくて難しい。

 

シンプルな生き方を目指している自分ですが、シンプルに生きるには健康が欠かせない。わかってはいるけど、健康ってわかるようでわからないことがめちゃくちゃ多い。

ここをシンプルに伝えられるように日々精進することを自分は求められている。

とあるクソしょうもない理学療法士のブログを読んでイラついたので内容もなくただただ感情を打ち込んでみました。

久しぶりに書く記事がこんなものになるとは非常に残念ですが、でも自分の感情を抑えないようにすることが最近の課題になってきているので、感情を処理していくようにするためにもこんな記事書いてみます。

 

今朝のフェィスブックのタイムラインに出てきたクソしょうもないブログの記事。

理学療法士には哲学を教えないからぶれないんだと。

解剖学・生理学・運動学を学ぶ前に哲学をまずは学ばなければならないんだと。

理学療法士であり、カイロを学んだらしき人が記事を書いてました。

この記事どこかで見たような気がすると、おそらくこの記事を書いた人どこかのブログ記事をパクッテるんではないかと。

 

私の記憶はあいまいですが、以前にもこのような記事をどこかでみかけました。

その方はたしかオステオパシーを学んでこられた方だったと思います。その方もどうようにカイロやオステは哲学があるけど、理学療法士にはないと言ってました。

 

哲学を学ぶということは確かに大事です。哲学は人が何かする時の教科書的というか説明書的なものだから何かに迷ったときに振り返るものだと思うんです。

 

しかし、クソ記事を書いた本人は理学療法士は軸がないとぶれやすい、軸がないからぶれるんだ的な言い、軸を形成するために必要なものは解剖・生理・運動ではなく哲学をまず知ることが大事で、哲学が大事だということを伝えるためのセミナーを世の理学療法士のために開きたいと。

そしてFacebook上でそのクソ記事の友人たちは大賛成だとおっしゃっておりました。せいぜい身内で楽しんでくださいって感じです。

 

軸がないことがそんなにだめなのか、軸がないのは哲学がないからなのか?

哲学なんてなくても十分に生きられる。というか哲学がないと生きられないという発想クソしょうもない。どう生きればそんなしょうもない発想になれるのか?

「俺は経験しているからこそわかるんだぜ」的な感じの発言クソしょうもない。

こういうセラピストがセミナーをできる。そこに多くの参加者が集まるというのがはっきり言って意味わからん。

理学療法士が軸がないとぶれないというのは制度的な問題の方が大きいと思う。

理学療法士がする仕事は「基本動作の回復・維持」それがまず軸になって様々な分野に波及していく。そこがまずないがしろにされていること自体が問題で。基本動作を確立するためには解剖・生理・運動というのは大前提にあり、そこを学べていないからぶれているのであって哲学がないからではない。

自分の仕事に哲学を持っている人間がどれだけいるのか?哲学があるから仕事が上手くいくということはないし、哲学がないから自分が安定せずに疲弊してしまうということもない。

何かにつけてセミナーを開催しようとするその発想がしょうもない。

セミナーを開催することは一向構わないし、どのセミナーに参加しようと人それぞれだからそこに文句を言うつもりもない。

でも弱みにつけこみ不安を煽るようなやり方でセミナーをやってやろうという感じがクソしょうもない。

 

裏付け根拠もない、ただただ自分の感情をぶつけるだけの記事になったけど。

自分としては大満足。クソなやつにはクソと言える自分になりたい。

他人と摩擦が起きようともそれは貫いてやってきたい。周囲に迷惑をかけない程度に

とある学会にて発表を行ってきたときのこと

久しぶりに書くブログがこんな内容になろうとは思いもしなかった。

この数ヶ月私が何をしていたか、特に誰も興味がないのはもちろんのことだろうけど、一応報告しておきます。

昨日の学会に向けて直前に焦って準備をする。

ただ焦りだけを感じながら特に行動は起こしていませんでした。

つまり学会のある2週間ほど前までに準備というものを行っていなかった。

学会というものをなめていたからだ。

人前で話をすることに少しなれてきたところだったし、学会の発表なんて所詮数分一時間話をすることに比べたら楽勝だとたかをくくっていた。

話す内容が決まっていればちょこっと資料を作っていれば余裕だろうと。

しかし自分史上では見たこともないぐらいの成果物のなさというやよりもなんの結果も残せていない。

話をしているのに、ウケ狙いに行ってるのにフロアからの熱量を感じられない。

嘲笑ならまだしも無という状態。

これは一体なに?と思って冷静に考えてみるとこれがスベるということなのかもしれないとハッとした。

アクションに対してのリアクションがない状態をいわゆるスベるというのだと認識した。

スベるとは物質間でなんの抵抗も生じないことを言うのだということが明らかになった。

学会で発表しても何も得るものはないと思っていたが、思わぬ収穫があった。

スベるということは大変なことなんだと。

仕事でなければあの状況が脳裏に浮かぶと何も行動を起こせなくなります。

芸人の皆様スベっても立ち向かおうとする姿感服致します。それこそがプロフェッショナルなんだと教えてもらいました。